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歴史の雑学7選その二

 

歴史の雑学7選その二

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指切りげんまんは元々遊女と客の約束の証

子ども時代、「指きりげんまん」と口ずさみながら、友達と指をからませて約束を交わした経験のある人は多いはず。

言葉通りの意味で解釈すると、約束を破れば、針を1000本飲まされるだけでなく、「げんまん(拳万)」つまり、拳骨を一万回くら
う罰まで受けるという恐ろしい誓いである。

このしきたりは、男女の愛憎の世界に由来している。

遊女が客に対して愛を誓う証「心中立て」として、切り落とした自分の指を送るという風習から生まれたのが「指きり」だ。

女性は指を一本切るという激痛と体の一部を失う苦痛に耐えてまで証を立てる。

そのため、1方の男性は、約束を破る時は針1000本や拳骨1万回浴びるだけ覚悟が必要というわけである。

しかし、実際に指を切る遊女は少なく、偽物の指や髪の毛、爪といったものを代わりにしていた。

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新幹線のレール幅は古代ローマの馬車の車輪幅がルーツ

新幹線のレール幅が、JR在来線のレール幅よりも広いことはよく知られているが、この幅は古代ローマに由来していることは、あまり知られていない。

新幹線のレール幅は「標準軌」と呼ばれ、一四三五ミリメートルある。

この『標準軌』のレール幅は、世界初の実用鉄道を完成したイギリスのスティーブンソンが採用したものだ。

彼はこのレール幅を採用する際に、かつて自分が働いていた炭鉱で使用されていた、石炭運搬用のトロッコ鉄道のレール幅をそのまま継承した。

では、さらにそのトロッコ鉄道のレール幅のルーツはというと、ローマ街道を走った快速馬車の車輪の幅である。

かつてローマ帝国は町から町に網の目のように街道を結んでおり、「すべての道はローマに通ず」といったことわざまで生まれた。

このローマ街道に残された馬車の車輪の幅が、世界の標準軌とな吠日本の新幹線にも採用されているのある。

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水戸黄門は不良だった

水戸黄門こと徳川光圀のイメージは、諸国を巡り歩きながら市井にはびこる悪を正すヒーローである。

しかし、少年時代の光圀は、とんでもなく素行が悪かった。

市中に出ては盗みや喧嘩を繰り返し、遊郭に出入りして女遊びにふけっていたという。

そんな不良少年・光圀が改心したのは一八歳の時。

中国の歴史書『史記』に出会って深い感銘を受け、よき藩主になることを誓うのである。

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水死体を表す『土左衛門』の語源の人は水死していない

水死した人間のことを、俗に土左衛門と呼ぶ。

これは江戸時代の享保年間に実在した力士・成瀬川土左衛門に由来している。

その理由は水死体と風貌が似ていたからであるという。

あまり想像したくはないが、水死体は水につかる日数が長いほど腐敗が進行し、体内にたまったガスによって全身
が膨らむ。

成瀬川土左衛門は、水ふくれしたかのようなぶよぶよの体型のうえに、肌の色が非常に青白かったために、まるで水死体のようだと江戸っ子たちの間で噂になった。

それが次第に全国に広がっていったという。

しかし、当の本人はといえば、別に水死したという記録が残されているわけではないのだ。

ただし、この説はこじつけとの見方もあり、太った男を「土仏」と呼んだことから誂ったという説水に落ちる「ドブン」という音が転じたという説などもある。

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日本で最初のクリスマスは戦国時代

戦国時代の日本でクリスマスが祝われていたと聞いたら、多くの人は驚くかもしれない。

1552(天文21年)に宣教師フランシスコーザビエルが山口でミサを行なったという記録が残っている。

当時、山口は「西の京」として京都を凌ぐほどの栄華を誇っていた。

その地で、領主の大内義隆はザビエルにキリスト教の布教を許可していたのだ。

最近までこの史実はあまり知られていなかったが、焼失した山ロザビエル記念聖堂が1998年に再建設されるにあたって、脚光を浴びるようになった。

現在では、「日本のクリスマスは山口から」というイベントが行なわれている。

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板垣退助は『板垣死すとも自由は死せず』とは言ってない

自由民権運動の主導者の一人として活躍した板垣退助。

彼が演説中に暴漢に襲われた。

そして、そのとき、「板垣死すとも自由は死せず」と言い放つたというのは有名な話。

しかし、実際は違っている。

暴漢に刺された傷で入院しているときに、知人に「自分が死んでも、自由の精神は滅びない」という趣旨のことを語った。

それが脚色されたのが真相のようである。

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平安京があった場所に平安時代の建物は一つもない

八世紀の後半に遷都して以来、長く日本の都として繁栄してきた京都であるが、現在の市街地のうち、かつて平安京があった場所には、平安時代の建物は一つも残っていない。

平安京の西側は、湿地帯が多くて建物を建設するのに向いていなかったことから、14世紀の末には衰退。

また、応仁の乱によって多くの建物が焼失したため、古い建物は安土桃山時代以降のものがほとんどである。

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